新一万円札の新たな顔として選ばれた渋沢栄一
そして今年の大河ドラマの題材にもなっている渋沢栄一
これだけ名前を目にする機会が増えた彼ですが、渋沢栄一がしたことと言えば!という質問に、すっと答えられる人は意外にも少ないのでは
今回はそんな渋沢栄一について簡単にまとめていきたいと思います。
目次
生い立ち
渋沢栄一は1840年に武蔵国(現在の埼玉県)に農家の長男として誕生しました。
しかし、農家と言っても渋沢家のスタイルはその辺の一般的な農家とは違い、藍玉(染料)の製造や養蚕業だけでなく、米・麦・野菜の生産も行うなど、とにかく多様な事業スタイルをもつ農家でした 。
また、原料の買い入れ・製造・販売といった商品の流通を全て自分たちで担っていたため、農家でありながら栄一にはそろばんをはじくなど商業的な知識も必要とされていました。
他にも彼はかなりの英才教育を受けており、7歳のころには四書五経を学んでいたほど。
と、言われてもこの四書五経を7歳で学んでいることが凄いのか凄くないのかよくわかりません。
そこでこの四書五経について調べたところ、この四書五経とは儒教の教典らしく、昔の中国では出世する為には欠かせない科目とされていたほど。
それを踏まえて考えると、わずか7歳の子供がその科目を学んでいるのですから、彼の凄さが分かりますよね。
また、彼が励んでいたのは勉学だけではありません。江戸時代と言えば侍。侍と言えば刀。そう、彼は剣術も学んでいたのです。
1861年(当時21歳)の栄一は、武蔵国から江戸に出るのですが、そこで彼は北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(玄武館)に入門します。これまた「へぇ、北辰一刀流を学んでいたのかぁ」とはならず、今回も筆者はこの北辰一刀流を学んでいることがどういうことなのかよく分かっていませんでした。
調べるとどうやらこの北辰一刀流とは幕末で有名となった三大道場の1つである玄武館で教わる流派らしく、出身者には新鮮組の隊員として有名な藤堂平助や山南敬助、また坂本龍馬など確たる有名人の名前が…
そして多くの人材を輩出したこの道場で、栄一は勤皇志士たちと交友を持つこととなります。
勤皇志士とは名前の通り「天皇に忠誠を尽くすぞ!」という考えを持った人たちのこと。もちろん栄一も彼らと同じ思想を持つようになるわけですが、栄一の思想は段々と過激なものになっていき、気づけば尊王攘夷へと形を変えます。
つまり初めは「天皇に忠誠を尽くすぞ!」といった忠誠心のみだったのが「天皇に忠誠を誓い、異国に対して武力で挑むぞ!」と忠誠心に攻撃的な要素も加わったのです。
もちろん、そんな過激な思想を持ち始めた栄一に親族は黙っていません。なんとか過激な思想を捨てさせることに成功はしますが、その時既に活動家として有名になっていた栄一。ほとぼりが冷めるまでと京へ出ることとなりました。
そしてそこで門番として仕えることになったのが、一橋慶喜。後に徳川家最後の将軍となる人物です。
渋沢栄一を変えた西洋文明
あれだけ「天皇に忠誠を誓う!」と言っていた栄一ですが、主君の一橋慶喜が徳川慶喜として将軍になると、幕臣として働くこととなります。
さらっと述べましたが、ただの門番だった栄一が気づけば幕府の役人にまで上り詰めているわけですから。いくら才能があるとはいえ、凄い強運の持ち主ですよね。
そして栄一は勤めとしてパリへ行くのですが、この出来事が栄一の人生を大きく変えます。
このころの日本はまだ髷文化が残っていましたし、腰には常に刀が備えられていました。移動手段と言えば人の足か動物の足。そういった日本文化が常識となっている栄一の目に、西洋文明はとても斬新に映ったのでしょう。
なんと栄一はこの旅の途中で侍のシンボルでもある髷を切り落としてしまうのです。この行動から西洋文明によっぽど衝撃を受けた彼の心情が伝わってきます。
そして日本にはない銀行や鉄道、株式会社の仕組みなど多くの事業知識を得ようと毎日心躍らせる栄一の元に日本から驚きの一報が入ります。
それは徳川家が政権を天皇家に返上するといった知らせでした。(大政奉還)
栄一たちは慌てて日本へと引き返しますが、その頃にはもう幕府の跡かたはすっかりなく、主であった慶喜はただの大名となり居住を駿河へと変えていました。
もちろん栄一も慶喜に会うため駿河へと向かいますが、やっとの思いで会えた慶喜からは「これからは自分の道を歩みなさい」と言われます。けれど慶喜本人にそう言われても、彼に恩を感じている栄一はそんなことはできない、と静岡藩へ出仕します。
そんな栄一に「東京に来ないか」と、ある人物が声をかけました。その人物とは、早稲田大学の創設者としても知られる大隈重信です。
なぜ静岡にいる栄一が、東京にいる大隈重信から声がかかることになったのでしょうか。
それは、彼が静岡で商法会所を設立したことが大きく関係します。
商法会所とは言わば株式会社。政府から借りたお金と商人からの出資を資金とし、お茶や養蚕、お米などを生産する費用へとあてたのです。ちなみにこの出資は誰でも参加することができ、金額も決まっていないという当時では考えられない画期的なスタイル。
そしてこの商法会所は会社に利益がでると、出資者へ配当金を出します。
これは今ではスタンダートになっている株式会社のシステムですが、この株式会社のシステムを日本で初めて導入した人物こそ渋沢栄一だったのです。
政府からの借金をただただ浪費していくだけでなく、新たな利益を生み出すという当時では誰も思いつくこともできない策をとった栄一に、政府が目をつけないわけがありません。
初めは静岡から離れる気はないと断る栄一でしたが、折れない彼の説得にあたるため大隈重信が登場します。彼に説得されるとさすがの栄一でも断るわけにはいきません。
駿河を立て直そうと取り組んできた栄一と、日本という国を作り上げようとしている重信とでは、視野の広さから違いますから。
さらに元より交渉力に定評があった重信です。栄一に「政府で働くしかない」と思わせるような口説き方をしたのでしょう。
そうして栄一は1869年(当時29歳)、大蔵省官僚となります。
日本資本主義の父へ
当時の政府は薩長出身者が多く、武蔵国出身というだけでも煙たがられる要素を持っていた栄一は、元幕臣ということでさらに周囲から強く当たられます。
しかしそんな苦しい環境下でも栄一は、日本の為にと政府が抱える財政問題に取り組みました。
しかし、度量衡の統一、租税制度の導入、簿記法の整備など、4年という短い在籍期間の間に栄一はこれらの法律や制度を整備したものの、いつまでも歳入が追いつかない状況、そしてその状況を生み出しているともいえる大久保利通本人が財政に関心がない状況に不信感を抱き、大蔵省を辞することを決意します。
この頃から栄一は、頭の固い人間ばかりが集まる政府よりも、柔軟な対応が可能な民間の会社に力を入れることで国の発展へと繋がると考え、民間企業の支援を始めるわけです。
まず取り組んだのが金融業。ことは辞職した栄一の元に、三井の大番頭、三野村利左衛門と小野組の小野善右衛門が声をかけたことから始まります。
金融業界の発展に力を貸してほしいと現れた2人に、栄一はパリで学んだ知識を元に日本初の銀行となる第一国立銀行(現在のみずほ銀行)を発足させました。
この第一国立銀行が設立されると、全国で合本組織の銀行が次々と誕生。
合本組織とは栄一が静岡で設立した商法会所(株式会社)と同じシステムです。
お金は持っているだけではなにも生み出さない。動かしてこそ意味がある。といった考えを持つ栄一は、お金を持っている者から資金としてお金を集めて、それを管理する場所として銀行を発足させたのです。
そしてその際、彼が最も重要したことが、出資者との信頼関係でした。
出資してもらうには相手からの信用が必要となる。その信用を得るためには相手に対して常に責任感を心掛けるべきである、という彼の考えは、現在の銀行でも大切にされていることです。
元々農家の子とは思えないような華やかな経歴を持つ栄一でしたが、このころから更に、いろんな企業から「お力になってください!」と声がかかるようになり、さらに華やかな経歴を持つことになります。
余談ですが、現在でもよく耳にする三菱東京UFJ銀行の大元ともいえる三菱銀行の創設者・岩崎弥太郎は、多くの人の力を借りて会社を大きくしようと考える栄一とは反対の考えを持つ人でした。
経営にかかわる人間が増えるとそれだけ口出しする人数が増え、事業が思うように進まなくなる。経営にかかわるのは少人数であるべきだと考えていたのです。(財閥のシステム)
結果としてはどちらも大きな会社へと成長していきますから、どちらの考えも間違ってはいなかったのでしょうが、栄一と弥太郎の仲は良くなかったみたいですね…そのことは、栄一の日記にも記されています。
さて銀行を設立することに力をいれてきた栄一ですが、多くの銀行が誕生すると、次は証券に力を入れようとします。すでに欧米では株式交換所が機能していたことを知っていた栄一は、証券取引も国の発展へと繋がると考えたのです。
しかしこれに対して国の反発は強く、なかなか思うようにことは進みませでした。
まだ証券の仕組みが取り入れられていなかった日本にとって、証券の仕組みは博打ととらえられてしまったからです。
確かに博打的な要素が全くないわけではないですが、博打かと言われるとそうではありません。きちんとした条件の中で取引されるわけですから、半か!丁か!!というシステムとは全く違います。
この誤解が解けるまでにはなかなか時間がかかったのですが、1878年に東京株式取引所が開かれることとなりました。
ここまででも、渋沢栄一って凄すぎませんか?
今の日本にある資本主義のシステムを0の状態から1人で作り上げているのですから。
もちろん完成させるまでにはいろんな人の協力があったでしょうし、本当に栄一1人で作り上げたのかというとそうではありませんが。
けれどこの仕組みこそ国が発展する仕組みだ!と第一に声を上げるのはやはり凄いことです。日本では誰も持つことのなかった視点を、栄一は常に持っていたのですから。
そしてこのように多くの民間事業の設立を支援したあとは、数々の学校・大学の支援に関わるようになります。
今では女性が大学へ進学することは珍しくありませんが、当時女性への教育は軽視されていた為、女性が大学へ行く機会など全くありませんでした。
しかし国を豊かにするには教育も豊かにすべきだと考えていた栄一は、女性も学べる場所を作るべきだと考え、日本女子大学校や東京女学館の設立に携わります。
さらに「働けない者の支援をしてどうするんだ!」という国からの批判を受けながらも、生活困窮者の生活を支援するため、東京養育院という施設を設立。
また、関東大震災の後には、国が動くよりも民間企業が動く方が早い!と、大震災善後会を結成。民間の企業から資金を集め、震災によって経営困難となった会社や施設を率先して支援しました。
そう、栄一は、日本の経済の基盤だけでなく、教育・福祉事業の基盤も作り上げていたのです。
凄い、凄すぎる、渋沢栄一。
それで結局なにをしたの?
これまでの数々の功績について調べた結果、なぜ彼が世間に決定的なイメージをもたれていないのかがよく分かりました。
栄一が死ぬまでに設立や育成に関与した企業は約500。携わった社会事業は約600。
そう、成し遂げた功績が多すぎる。そして成し遂げた功績の内容が凄すぎるからです。
功績の数が多ければ、その中からインパクトの強いものをイメージとして持たれそうですが、栄一の場合はどれもインパクトのある物ばかりで、これだ!というものが選べません。
結局なにをした人なのか、しいて言うとするならば、今の日本経済の基盤を作り、福祉事業の基盤も作り上げた人。
もちろん。彼の功績はこんな一行にまとめられることではないのですが…。
今の日本を作り上げることに大きく貢献してきた渋沢栄一。
彼こそ新一万円札の顔としてふさわしい人物だと言えるでしょう。